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「あられもない祈り」を読んでみた [思うこと/日記]

最近の私の本のチョイスは、
雑誌や新聞の書評を読んで…ということが圧倒的に多い。
今回のチョイスもそうだった。
確か、同時にもう1冊読みたいなと思った本があったけど
そっちは地元図書館で持っていなかったので断念し、
こちらの本だけ手配した。
その時点で予約は4人かな、それくらいしか入っていなかった。
だから順番は、結構早く回ってきた。

あられもない祈り

あられもない祈り

  • 作者: 島本 理生
  • 出版社: 河出書房新社
  • 発売日: 2010/05/13
  • メディア: 単行本


この作者さん。
もちろん名前は存じ上げていたが、著作を読むのは初めて。
図書館の帰りの駅のホームで本を開いたら
1ページあたりの字数が少なくて、「ふうん」と思った。

さて、読書感想文であるが。
(この先、少々ネタバレしているので、お気をつけ下さい)
各種メディアでは絶賛されていたにも関わらず
ネットではどっちかというとさんざんな評価のようだけど
私としては、わりと好きな空気感だった。
主人公の「私」には全然感情移入できないんだけど、
それなのに“この人は私だ”って思っちゃったのよね。

私には、リストカットの癖はないし
金が入ると浮気旅行に出るような父も
なんかっちゃ金の無心をしてくる母も
キレやすく盗癖のある同棲相手もいないし
そもそも年齢も何もちっともかぶってないのに
でも、“この人は私だ”って思っちゃったのよ。
救いようのない“イタい感じ”が似てる…気がする。

作者さん曰く「名前すら必要としない二人」…。
「私」と「あなた」の関係には、現実感がないのね。
たぶん私の実年齢は「あなた」の方に近いはずだけど
「あなた」には婚約者がいるにもかかわらず
年若い「私」に「俺と付き合ってもらえませんか」とか言うこと、
そのくせ結局結婚しちゃうこと、いろいろ納得いかない。

そして「私」には、そんなに女性としての魅力を感じない。
いや、同棲相手が「私」に執着するのはなんとなくわかるのだが
「あなた」までが執拗にこの人を追い回すのはなぜだろう?
「君さえ良ければ、俺はまだ、大きな変化も覚悟してる」だなんて
数ヶ月後には式を挙げる立場なのに言ってしまうほど。

ま…このセリフも“君さえ良ければ”って
選択権を「私」の方に丸投げしてるのが
私としては気に食わないっちゃ気に食わないんだけど。
“君さえ良ければ”じゃなくて、
俺がそうしたいからそうするってのが本意なんじゃないのか?
恋愛って自己責任でしょうよ。
二次元に向かって私が吠えても意味ないけどさ。

本人たちには自覚はないけれど
傍から見れば、愛人関係。
そうなのよ、意外とその渦の真ん中にいる時って
本人たちはそういうふうに思ってなかったりする。
そんなふうに感じている「私」に「あなた」は
「君は、俺の恋人です」って困ったように言うけれど。

本人たちには、意外としっくりこない。
それはわかる気がする。というか、わかる。
「恋人」と言われ、そして「私」は黙り込む…。
その理由は明記されているけれど、
これは「私」が若いからこその感覚なのかな?
私には、よくわからない。
ただ、こういうことをほんとうに言ってしまう人間を
私も知らないわけではない。

「俺は君のことが好きです」と言う「あなた」は
「私」の気持ちを確かめようとするけれど
「私」は、その場ではそれには応えない。
なぜ?
好きなら好きだと言えばいいのに。
そのくせ「あなた」が式を挙げてしまってから
「それでも私はあなたのことが好きです」ってどうなの?

しかも“それでも好き”なのに、最終的には
「私」は「あなた」を切り捨ててしまう。
“どうすることもできない”と宣ってしまう。
…解せん。

“この人は私だ”と思ったはずなのに
私は「私」の心の動きを、あんまり理解できない。
恋愛に対するスタンスが違うんだよなぁ…。
自分には素直でいた方が、生き易いし楽しいのに。

とにかくね、それぞれの人物像にも
交わされる会話にも、いまひとつ現実感がないんだな。
それとも世の中には、こういうのってありふれてるの?

 

電車に乗り込んだ「私」は、どこへ行くのだろう。

 

ネット上では、タイトルにある「祈り」の部分がわからないって
そういう意見を複数見たけれど
「祈り」の部分は明記されているのではなくて
「私」を感じたときに、感じられる気がする。
私には、「祈り」の部分がなんとなくわかる気がするんだ。

だって、「あられもない祈り」なんだもの。
こういう意味です!こういう解釈です!って明文化はできないけれど
私はこの本を2回通読して、「祈り」を感じた。
ほのかに、とかじゃなくて、叫ぶような強さで
「私」が心の奥底に持つ「あられもない祈り」を感じた気がする。
もちろんこういうのって正解は作者さんの中にしかないので
(作者さんの中にすらない場合も多々あるが)
あくまでも私がそういうふうに感じてるだけだけど。

“イタい自分”をよく感じる今日この頃、
いつもに増して分裂気味な読書感想文になってしまったかな。
個人的に、ほんとうに暴力的に思考をつなげていくと
最終的な「私」のチョイスは『ヴァイブレータ』の玲のそれに通じていて
だけど電車に乗ってしまうあたりは、
玲よりも若い「私」だからこその行動なのかも知れないのかな。
よくわからない。
結局のところは、解せんってこと?

たとえば映像化されるとしても、連ドラは無理だな。
ややうらぶれた単館系で、ひっそりと上映する感じがいいのかも。
私としては少なくとも、単行本で買う必要性は、感じない。
手元に置いておくと、自分の“イタさ”をいつも感じてしまいそうだから。

でも、この空気感は、やっぱり嫌いじゃない。
私の心の中の闇の部分に繋がっている気がするんだ。
実は私も、「私」と同類項なのかも知れない。
そうではないと思いたいけれど。


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コメント 2

藍色

こんにちは。同じ本の感想記事を
トラックバックさせていただきました。
この記事にトラックバックいただけたらうれしいです。
お気軽にどうぞ。
by 藍色 (2013-03-26 16:54) 

ねいびー

藍色さん、初めまして&いらっしゃいませ♪
同じ本の感想文ということでお言葉に甘えまして
こちらからもトラバさせていただきました~。
よろしくお願いいたします☆
by ねいびー (2013-03-26 23:21) 

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